A May 11, 2010 article on Terasaki Shirakabezuka Kofun (寺崎白壁塚古墳) stated that octagonal burial mounds were utilized solely by the imperial family from the mid-7th century, the shape considered as sacred. A recent find, however, casts doubt on this designation:
The only multi-sided tomb in Japan with rock carvings inside its burial chamber, Yoshida Kofun (吉田古墳), located in Mito city, Ibaraki prefecture, was discovered in 1914, and its stone chamber was left exposed for some time. It was opened to the public this year for the first time in 38 years, since the last excavation in 1972, when excavators had filled the tomb in with river-sand as a preservation measure. Until being sealed in 1972, however, it was possible for visitors to freely enter the tomb, which is why graffiti remains on the side walls. Measuring 26 meters east to west and an estimated 30 meters north to south, it is dating to around the middle of the 7th century. The immediate burial chamber (of horizontal-entrance construction 横穴式石室) is around 1.8 meters tall and around 3.5 meters long (with a complete depth of around 7.5 meters), and its back wall is made of tuff (凝灰岩) and bears 1-2mm deep carvings of weapons and armor.
Regarding its shape, there is a chance that the multi-sided tomb (多角形墳) is actually octagonal (八角形墓); in the Kansai area, regular (正) octagonal tombs are often the resting places of members of the imperial family, which raises the question of the identity of the interred.
It was announced after a 2005 investigation that the tomb was multi-sided, upon the discovery of four outer corners; at that time, it was suspected to be a square tomb (方墳) measuring 8 meters to a side and 26 meters across, from farthest corner to farthest corner.
Researchers insist there is a good chance Yoshida Kofun is actually octagonal, which would make it one of only 20-some examples (out of the some 160,000 kofun said to exist) of domestic octagonal kofun. While octagonal tombs were indeed built throughout Japan prior to the establishment of centralized government, it is believed that the building of octagonal tombs for non-members of the imperial family far from the central capital ended in the early 7th century. Dated to the mid-7th century, what is a tomb like Yoshida Kofun doing way out in the north Kanto region, far from the Home Provinces of Kyoto, Nara, and Osaka?
There have been several suggestions as to the identity of the interred and the nature of the tomb’s relation to the capital; perhaps a local magnate co-opted the symbolic design as a symbol of his own power.
Concerning the wall carvings, it is believed that a small iron knife would have been the tool used to make the fine incisions.
There are eight carvings of five varieties of armor and weapons, including a sword (大刀), knifes (刀子), and quivers (靱) carved in great detail, while the remaining designs are believed to be spears (鉾) and an archer’s arm protector (鞆).
Yayoi and Kofun specialist Ōtsuka Hatsushige proposes that the grave may have been that of a local magnate introducing the mortuary culture of the capital into his own region. That the capital culture would reach so far east so quickly would seem to contradict with the notion that regions far removed from the capital were backwaters boondocks. Or perhaps it was a high-level administrator or warrior sent to the north Kantō region by the central government for a variety of possible reasons. Some suggest it is the grave of a kuni no miyatsuko (国造) official sent by the court from his home in Kyushu, where tomb wall paintings are not uncommon.
Archaeologist Habuta Yoshiyuki, however, is taking a much more conservative stance: He says that there is not enough evidence to judge with full certainty that the tomb is octagonal. Even if the tomb were to be octagonal, it would be dated to the second quarter of the 7th century (judging from the nearby Torazuka Kofun), yet before the Ritsuryō regulations took form, meaning there would be no friction with the protocal of the Home Provinces.
For more information: http://inoues.net/club2/yoshida_kohun.html
吉田古墳:38年ぶり、内部公開 あす市民に現地説明会 /茨城
石室内に線刻壁画を持つ多角形墳としては全国に例のない水戸市元吉田町の吉田古墳(国指定史跡)の内部が26日、1972年の発掘調査以来38年ぶりに公開された。石室の整備活用方法を検討するための市教委による調査に伴うもので、奥壁に描かれた大刀や鉾など武具8点の絵が、埋め戻し前とほぼ同様に残っていた。28日、市民向けの現地説明会を行う。
吉田古墳は1914年に発見され、石室は長い間、露出していた。これまでの調査から、7世紀中ごろの多角形墳(東西26メートル、南北推定30メートル)と判明。石室内の玄室の高さと幅は約1・8メートル、長さは約3・5メートル。「水戸層」と呼ばれる凝灰岩の奥壁には深さ1~2ミリの線で武具が描かれていた。
墓の形はいびつだが、八角形の可能性もある。関西では正八角形墓は天皇陵の場合が多いため、埋葬されたのは地元の有力者か中央とつながりのある位の高い人物だったという見方もある。
今回の調査は、38年前に川砂を使って埋め戻した後の劣化状況や彩色の有無、今後の保存に必要な環境のデータを得るためのもので、今年いっぱい必要な計測を行った後は温度や湿度などを計るセンサーとともに、埋め戻す。
担当する渥美賢吾文化財主事は「壁画の保存状態は予想以上に良かった」と驚く。現場を視察した加藤浩一市長も「水戸を代表する重要な歴史資料。市民の誇りにしていきたい」と話した。
現地説明会は午前10時と午後2時から。雨天中止。問い合わせは市埋蔵文化財センター(電話029・265・5090)。【山崎明子】
毎日新聞 2010年11月27日 地方版
http://mainichi.jp/area/ibaraki/news/20101127ddlk08040284000c.html
Article retrieved 2010/12/01
天皇陵と同じ八角形か/水戸・吉田古墳
2010年11月27日
<劣化少なく保存良好>
横穴式石室の発掘調査は10月に開始。1972年調査後に川砂で埋め戻したままだった内部を開いた。
この日の発表によると、奥行き約7・5メートルの石室の保存は、壁画も含め良好だった。川砂が凝灰質の泥岩の風化を食い止めたとみる。今後、壁画の彩色の有無を調べ、三次元計測で詳細構造を把握し、年内に埋め戻す。その際、センサーを入れて水分や温度の経過を見ていく計画だ。
市教委は、2005年以来の周溝の発掘調査で角が四つ見つかり、多角形墳と確認したことも発表。墳丘の東西の対辺間は約26メートルという。従来は8メートル程度の方墳と考えられていた。線刻壁画を持つ多角形墳の確認は国内で初めて。
築造年代についても、6世紀から7世紀初期とみていたが、墳形や石室の特徴から「7世紀中期」に見直した。
市教委は、八角形の可能性が高いことも強調する。八角形墳は、畿内では天皇陵を特徴づけるとされ、未確認のものも含め全国で20例程度しかない。天皇陵ではない地方での築造は、中央政府の力が整わない7世紀前半にとどまると見られてきた。大化の改新後、天皇中心の集権が進んでいった7世紀後半に北関東で造営されていれば、位置づけを巡り、全国規模で議論を呼びそうだ。
吉田古墳は線刻壁画の希少性で1922年に国史跡指定。多角形墳の確認をうけ今年8月に周辺が追加指定された。
<市長「観光資源にしたい」>
石室の川砂が完全に取り除かれ、壁画が完全に姿を現したのは、記者発表の2日前。渥美賢吾・市教委文化課文化財主事は取材に、「写真と同じ壁画が見えました。しっかり保存されていたとわかり、とにかくほっとしました」と喜び、「内部に残されたメッセージを読み取っていきます」と決意を述べた。
加藤浩一水戸市長は現地で、「水戸の観光資源にしていきたい。保存と同時に多くの人が見られるものにできないだろうか」と語った。
古墳時代に詳しい茂木雅博・土浦市立博物館長は「よくここまで残っていたと感動した。泥岩は乾燥すると剥離してなくなる。古墳は放っておいたら崩れてしまう。石室は重要な遺産。全体の密封が必要だろう」と話している。
現地説明会は28日午前10時と午後2時の2回。雨天中止。問い合わせは市埋蔵文化財センター(029・269・5090)へ。
http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08000001011270001
Article retrieved 2010/12/01
通説覆す?天皇陵でない八角形墳か 水戸・吉田古墳
2010年11月29日4時35分
克明な線刻壁画で知られる水戸市の吉田古墳(国史跡)が八角形の可能性の高い多角形墳であることがわかり、市教委が発表した。八角形墳は、畿内では天皇陵を特徴づけるとされ、天皇陵ではない地方での築造は、中央政府の力が整わない7世紀前半にとどまると見られてきた。より遅い時代に北関東で確認されれば、位置づけを巡り議論を呼びそうだ。
吉田古墳は従来、1辺8メートル程度の方墳と考えられてきた。2005年以来の周溝の発掘調査で角が4カ所見つかり、角度や位置から、墳丘の対辺の間が約26メートルある大規模な多角形墳と確認。「八角形の可能性が高い」と市はみている。線刻壁画を持つ多角形墳の確認は国内で初めて。
年代について、6世紀から7世紀初期とみていたが、墳形や石室の特徴から、築造年代も7世紀中期に見直した。
天皇の権威を象徴する八角形墳は、未確認のものも含め全国で20例程度しかない。大化の改新後、天皇中心の集権が進んだ7世紀後半に、地方でこの形が造営されていれば、意味付けが問い直される可能性がある。
大塚初重・明治大名誉教授(考古学)は「多角形に墳丘を整えた被葬者の意志が感じられる。畿内の文化が地方にもいち早く伝わり、在地の有力者が地位を表すため新しい世界観を取り入れたのではないか」と語った。
市教委は、壁画が描かれた横穴式石室の発掘調査も38年ぶりに進めており、この日、内部を報道陣に公開した。
吉田古墳は、大刀(たち)や弓矢を入れる道具などの武器類を規則正しく写実的に描いた線刻壁画の希少性で、1922年に国史跡指定。
今年9月、奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳が八角形と確認され、斉明天皇が被葬者であることが有力になった。
http://www.asahi.com/culture/update/1126/TKY201011260231.html?ref=rss
Article retrieved 2010/12/01
古代人の息吹 今に/石室38年ぶり公開
2010年11月27日
<厳粛な雰囲気 荘厳な線刻壁画>
水戸駅から南に1・5キロ。市立千波中近くの静かな住宅街に、吉田古墳はある。
38年ぶりに開いた横穴式石室に26日、入った。埋めていた砂が完全に取り除かれたのは、わずか2日前だ。
奥行き約7・5メートル。江戸期に土砂を再利用された影響か、手前半分は崩れてなくなり、入り口の羨道(せん・どう)は石が二つ残るだけ。亡きがらを納めた玄室の側壁も一部は傾いている。
玄室は、高さ・幅とも1・8メートル程度。灰褐色の壁の中は薄暗くひんやりとして、厳粛な雰囲気だ。左右に、現代人による名字などの落書きが幾十もある。38年前までは埋められておらず、自由に出入りできたらしい。
奥の壁には、線刻で描かれた装飾画が一面に広がる。上下左右とも1・2メートルほどの範囲に武器や武具の絵が並ぶ。大刀(た・ち)、刀子(とう・す)(ナイフ)、靱(ゆき)(弓矢を入れる道具)が克明に彫られ、鉾(ほこ)と鞆(とも=弓矢を射る手に装着する)と思われる模様が間を飾る。各模様は、伸びやかに上下に刻まれている。実に規則的な配置で、荘厳さを感じた。線は数ミリ程度で細く浅い。鉄製の刀子を使ったという見方が有力だ。
現在、吉田古墳の外見は小さな塚のようだが、実際には十数倍の範囲に八角形の可能性の高い多角形墳が広がっていたと推定される。墳丘の周囲の堀(周溝)が4カ所発掘され、その証拠になったが、現在は埋め戻されて畑などになっている。
<深まる謎 ふくらむ夢>
新たな発見により新たな課題が生まれ、意見の相違が出てくる。本当のおもしろさはこれからだともいえる。
●何角形なのか
八角形墳は全国の古墳16万基のうち、可能性のあるものを含め約20例しかない。畿内では正八角形で、角が敷き詰めた張り石で確認されるものが多く、天皇陵を特徴づけるものとされる。
吉田古墳について市教委は主に南側の発掘を進め、周溝から4角を確認し、全体をややゆがんだ八角形と推定した。今後北側を調査すれば「断定できる可能性がある」とする。
古墳時代に詳しい大塚初重・明治大名誉教授(考古学)は、最低でも六角形で、八角形の可能性は十分にあるとみる。「多角形に墳丘を整えた被葬者の意志が感じられる。在地の有力者が畿内の新しい世界観を取り入れていたと考えれば、当時の地方は中央の文化がいち早く伝わっていて、文化の遅れた田舎ではなかったといえる」と語った。
古墳の構造に詳しい土生田純之・専修大教授(考古学)は慎重な立場だ。吉田古墳は角が石ではなく溝で確認されている点や、未調査の部分で必ず角が出るとは限らないなど様々な可能性をあげ、「八角形との断定は危険。多角形も断定するのに十分ではないだろう」と指摘。時期については、「近くの虎塚古墳の流れから7世紀第2四半期と思われ、律令体制の前なので、八角形であっても中央とあつれきが出る時期ではない」とも述べた。
●被葬者はだれか
墓碑銘を持たない日本の墳墓は、大半で被葬者がわかっていない。考古学でこの問題は「一番意地悪な質問」ともいわれる。
市教委は、線刻壁画や古墳の形状が水戸周辺では確認されていないものなのでまだ系譜をたどれておらず、「特定の地元の豪族と結びつけることは今はできていないが、重要な情報を持っていた有力者だろう」とする。
夢をみようと、専門家にあえて自説をうかがった。川崎純徳・県考古学協会会長は「論議はわかれるが、私は国造(くにの・みやつこ)の一族と思う。壁画は九州に多く見られ、同時代のものが茨城にもあった。九州系統の豪族が中央政府の命令でこの地にきた。その一族ではないだろうか」と述べた。
大塚名誉教授は「天皇と同様の八角形にこだわる地元の有力な豪族か、中央政府から派遣された高級行政官や軍人などが考えられる」と話す。
http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08000001011270002
Article retrieved 2010/12/01